こんにちは、
ともやんです。
1964年(昭和39年)は、なんと言ってもオリンピックと新幹線の年でした。
実は、その前に4月1日に、日本人の海外旅行の自由化が実施されました。
IMFとOECDへの加盟で国際社会に仲間入りしたことから実現したことです。
かくして、その後猫も杓子も海外へとなるわけです。
ただし、この年の旅行者でいえば約12万8千人、その内、公務員と商社マンが仕事で渡航というのがほとんどで、純粋に海外旅行した人は、約1万9千人でした。
まだまだですが、翌年には、めざといJALが、「ジャルパック」という団体旅行パックをつくって海外旅行を推進しました。
さて今日は、東京オリンピックの公式ポスターとゴジラについて書きたいと思います。
東京オリンピック 組織委員会発足
1959年(昭和34年)9月、第18回オリンピック東京大会開催に向け、25人の委員で構成されたオリンピック東京大会組織委員会が、発足しました。
この時、開催の5年前から本格的な準備がはじまったわけです。
公式ポスターはデザイナーの亀倉雄策に依頼されました。
昭和36年2月、東京オリンピックのシンボルマーク(五輪に日の丸)を表現した公式Aポスター(第一号)が発行され、大会まで10万部が配られました。
公式B(第二号)から公式D(第四号)には早崎治撮影の写真が使われて、昭和37年に公式B、38年に公式C、39年に公式Dと、毎年一枚ずつ発行されました。
陸上競技100メートルのスタートダッシュをイメージした公式Bポスターは、特に好評でした。
東京オリンピック 公式ポスター 制作秘話
東京オリンピックの公式Bポスター(第二号)(昭和37年5月24日発表)
デザイン亀倉雄策・フォトディレクター村越襄・撮影早崎治
縦104cm×横73cm
陸上競技100mのスタート・ダッシュをイメージして制作されました。
撮影は昭和37年2月、夜の国立競技場で、50台のストロボを発行させながら行なわれた。
モデルのランナーは、米軍立川基地の兵士三人のほか、潮敬平(リッカー)、岡本登(同)、久保宜彦(東急)らの競技経験者でした。
一瞬をとらえるため。
なんと80回もスタートをやり直したそうです。
最初の五万枚は大日本印刷と凸版印刷で25,000枚ずつ印刷され、増刷を含めて計九万枚が発行されました。
東京オリンピック 5年前にゴジラ登場
映画『ゴジラ』の第一作が封切られました。
のちの娯楽を主体とした怪獣映画ではなく、根底に戦争と核開発を批判した社会派の映画でした。
映画では、最初、東京湾の外側に設定された大戸島というところに、出現します。
被爆した第五福竜丸が3月14日に焼津港に帰港した直後でもありました。
海底深くに眠っていたゴジラが、水爆実験によって、突然目を覚まし、東京を襲ったというストーリーで、「原爆や水爆はやめろ!」という平和を願う日本人が、かたちを変えておこなった抗議ともとれます。
まことに意味深いストーリーで、ゴジラは水爆の恐怖の象徴として描かれていたわけです。
世界がそういう危険な状態にあることをこの頃の日本は、懸命に警告して発信していたわけです。
まとめ
昭和の歴史を見ていると、正直、変わらないな、という印象です。
日本においては、憲法改正の論議、世界では核開発の中止など、60年以上前から議論されているのですが、
なにも変わっていないじゃないか!?
というのが正直の気持ちです。
1954年(昭和29年)に水爆実験に抗議した映画『コジラ』が発表され、5年後には、平和の祭典『東京オリンピック』が開催されたのに、
なんでこの国を運営する責任者は平和に徹するということに対してぶれるのかと悲しくなります。
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